丹田呼吸法の由来

 古代インドの時代、釈迦族の王子として生まれたお釈迦様は29歳の時に重大な決心のもとに出家して苦行生活に入りました。彼は生・老・病・死の苦悩から人類を救済することを志し、あらゆる難行苦行をして、わが肉体に苦難を強いる修行を6年間続けました。

 しかし肉体は極限までに、やせ衰えて衰弱しましたが、悟りは一向に開けませんでした。ある時、菩提樹の木の下で瞑想を続けているときに、「吐く息を吐く息として知り、吸う息を吸う息として知る」という呼吸法に目覚めたのです。これが「アナパーナ・サチ」と呼ばれるもので、「吐く息に心をこめる呼吸法」として「大安般守意経」というお経に書かれています。

 お釈迦様のこうしたお経は三蔵法師によって中国へもたらされて、さらに遣唐使によって写経され、日本へと伝わったのです。こうして東洋の叡智であるお釈迦様の呼吸法が仏教とともに伝承されることになったのです。

 この呼吸法は江戸時代の中ごろ、臨済宗の中興の祖と云われた白隠禅師によって脚光を浴びることになりました。白隠さんは厳しい修行によって禅病に罹り、これを克服するために京都の山奥に住む白幽仙人から丹田呼吸法を伝授されて、「内観の秘法」「軟酥(なんそ)の法」を確立して、禅病に苦しむ多くの修行僧たちを救うために「夜船(やせん)閑話(かんな)」という丹田呼吸法の本を著したのです。彼は駿河の国の原(現在の沼津市)にある松蔭寺で布教に努めましたが白隠禅師を慕って全国各地から修行僧が集まり過ぎて、宿泊する寺が無くなったという言い伝えが残っております。

 「駿河には 得難きものが二つある 富士のお山と 原の白隠」と崇められたそうです。

 このようにして伝えられた丹田呼吸法は明治になり調和道の創始者、藤田霊斎師によって確立されました。
調和道丹田呼吸法はお釈迦様の時代から二千数百年に亘り東洋人の叡智と伝統により培われた、他に比類のない優れた健康法と云えるのです。

 

調和道の由来

 調和道丹田呼吸法は、真言宗智山派の藤田霊斎師が厳しい修業の末に明治40年に万人の健康法として「息心調和法」の名称で、千葉県千葉町(現 千葉市)に道場を開いたのが最初です。

 藤田霊斎師はその後、2度にわたる真冬の高尾山や高野山への参籠を経て、呼吸法の基本である「完全息の六原則」等の奥義を極めました。昭和2年になると「社団法人調和道協会」の認可を得て文字通り国民健康法として一般に広まりました。

 又、昭和3年には創立20周年を機に協会としてハワイ伝導にも着手して、道祖が逝去された昭和32年まで、国内だけではなくハワイにおいても調和道の呼吸法が行われていました。

 道祖の意志を継いで二代目の会長として就任したのは医学博士の村木弘昌氏です。村木会長は呼吸生理学の研究に力を入れて、医学的見地から、より安全で、老若男女、病弱者にも受け入れられる健康法としての道を模索し、息法体系の再編と改善を行いました。活動拠点も本部だけではなく、関西、名古屋、新潟にも開設して、マスコミ業界からも注目を浴びるようになりました。又、村木会長が当時の中曽根総理に東京谷中の全生庵にて丹田呼吸法を指南したという話は現在まで伝えられております。

 平成2年になると第3代会長として帯津良一医学博士が就任しました。帯津会長は丹田呼吸法を「西洋医学」だけではなく「ホリステック医学」の立場からも究極の養生の道として捉え、調和道の一層の普及に努めました。

 平成19年7月に聖路加国際病院名誉院長の日野原重明医学博士が第4代会長に就任すると、同年11月に日野原会長のもとに多くの同好の士が集まり「調和道創始100周年記念」が上野の精養軒にて盛大に挙行されました。

 調和道協会は平成24年4月に公益社団法人に移行してからも、現代の深刻なストレス社会に対応した画期的な身心健康法として多くの注目を浴びております。